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靴紐を結ぶことで、

ソクラテスに出会う㊦

2019年9月10日

先週のブログで「理性派」と「感性派」の意味を説明していました。では、「靴紐を結ぶ」という行為は、いったい理性を通して完成するの?または経験を通して完成するの?

この話題に進む前に、知恵(Know-How)と知識(Know-What)の区別についての話をするべきです。

知恵(Know-How)vs. 知識(Know-What)

1945年、イギリスの哲学者のギルバート・ライル(Gilbert Ryle)はある演説で、こういうことを言いました。「僕の前の哲学者たちは、知識や真理という抽象的な概念を求めすぎて、逆に方法やスキルという具体的な物事の探究は放置された。なぜなら、皆はよく「知識」と「知恵」を混乱させて、両者は同じ概念を誤解するから。」と指摘しました。ギルバート・ライルは、ある事のやり方を知ること(knowledge-how/ know-how)とその事の本質やそうする理由を知ること(knowledge-that/ know-what)は全く違うと思います。

例えば、靴紐の結び方を知っている人に「なぜ最初は丸を作らなくて、クロスするの?」に聞いたら、解答を得ない可能性が高い。結び方を知っている人も、そうする理由を知らないから。結び方を知っているあなたは「靴紐をクロスしないとできないから!しかも、そもそもそうするべきだ!」と思うかもしれません。けれど、結び方を知ることも、誰かに教えてもらったものじゃないですか?つまり、私たちに当然をされた方法は、身についてから、その中の真理も分かってきて、知識をゲットのは誤解です。そもそも両者は違うことですから。

「先に知恵(Know-How)を身につかないと、知識(Know-That)を得ない。」ギルバート・ライルまたそう言いました。つまり、私たちはあることの全貌を認識できて、しかも理性に説明できるのは、先に実際の行動や体験があったおかげで、そしてだんだん成し遂げます。

けれど、ここまでは経験論者(experientialist)が大勝とも言えません。アメリカの認知科学分野の哲学者のジェリー・フォーダー(Jerry A. Fodor)はそう言ったことあります。

やり方を知ることとやり方を説明できることは大きな違いがあります。その差別は主知主義者が探究しているもの。猫、犬、児童は自ら説明できないことができるって、やり方を説明できるのも能力の一つと分かって、しかも知識のひとつのも言えます。

だから、たとえ靴紐を結ぶことの「真実」(Know-What)と「過程」(Know-How)を割って、主知主義(intellectualism)や経験主義(experientialism)に揃っても、安易に両者との係りを否定できません。ところが、このような葛藤の中で、私たちはバイナリ思考を抜け出して、「共存」の角度から、改めて靴紐を結ぶことの「知恵」と「知識」を考えてみた方がいいかもしれません。

  参考文献

  • Fodor, Jerry A. “The Appeal to Tacit Knowledge in Psychological Explanation.” The Journal of Philosophy, vol. 65, no. 20, 1968, pp. 627-640., doi:10.2307/2024316.
  • Ryle, Gilbert. “Knowing How and Knowing That: The Presidential Address.” Proceedings of the Aristotelian Society, New Series, vol. 46, 1945, pp. 1-16.